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友わんこ & 3にゃんこ & パンドラの徒然
里親募集サイトからやってきた犬の友ちゃん、両親の忘れ形見で、元外猫の3匹の猫たちと、パンドラの日常をつづります。

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Author:パンドラ
里親募集サイトからやってきた、柴犬mix♀の「友」と、両親の忘れ形見となった、外猫から昇格の3にゃんこ(み~♀、トム♂、にゃん吉♂)の母パンドラです。友の心の姉の先代シェリーも登場します。動物家族とパンドラのことも楽しくつづります。

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親の家の片付け-最終章
親の日記をみつけて感動していた頃は
まだまだ、片付けも序の口でした。

6月中旬に「解体打ち合わせ」があって後は
怒涛の日々を過ごしています。

7月中旬のある日に解体が始まることに
決まっています。

その時に家に残しておいてよい物は
家の一部と考えられるような、木や金物で
できているものだけ。その他は全て撤去して
おかなくてはなりません。

それに加え、電気、ガス、電話などを
とめる手はず、土地の測量、隣接地の方の
測量立会、挨拶、、、等々、目がくらみそうな日々です。

もう、日記や手紙を読んでいる暇はありませんので、
思い出品の整理だけは済ませていてよかったです。

ただ、写真だけは、一ヵ所に集めておいただけで
目を通していなかったので、写真に目を通すのは
片づけをしない夜のお仕事にしました。

それも昨晩で終わり、
実母のもの、父のもの、母のもの、
それから、私も含めた、両親が結婚してからのもの、
全てに目を通して、見ていて幸せになれる、
素敵な笑顔の写真だけ、少し選んで、
後は処分に回しました。

皆の賞状などを処分するのは心が痛みました。
どんど焼きの時まで保管しようと思っていましたが、
片付け進めているうちに自分の中で、変化が起きて来て、
「ありがとう」と手を合わせて後、処分することにしました。

7月3日にリサイクル業者さんに買い取りできるものは
買い取りを、引き取りできるものは引き取りをお願いします。

7月7日に引っ越し業者さんに、保管してもらう家具は
保管してもらい、家に運んでもらうものは運んでもらい、
処分品は処分してもらいます。

そして、お猫ちゃんずはこの日から我が家に同居です。

4年前に92歳と85歳で亡くなった両親は
結婚する前からの物、すべてを何一つ処分していなかった
と言っても過言ではありません。広い家の中と、庭の物置
すべてに所狭しと積み重ねられていました。

使われていなかった(仕舞われていた)膨大な物との格闘は
私の心に、いろいろな思いを残しました。
また、おいおいご報告致したいと思います。
親の形見
鳩の夫婦は不思議なんですが、
たまに巣に姿を見せます。
子育てできてるといいんだけど。
hrtlinea.png
親の家の片付けも、何となく道が見えてきました。
なかなか片付けるには至っていませんが
家の中の全てのものに、目を通しています。

父の自室が8割方
母の私物は9割くらい
父の仕事部屋がまだ手をつけていません。
プライベートなものには、全部目を通そうと思います。

基本的に遺すものは何もない予定です。
極少しの、生きた証となるものを除いて。

のものでは、自費出版した自伝的な本があります。
商品だったので、全て売りきっていましたが、
最後の1冊だけ、父が自分用にしていたものが残っています。
これを遺します。

先日は、父が2段の引き出しにばさっと入れていた
写真の数々にざっと目を通して、別途に写真だけ集めました。

その父の写真の中に、私のものがいくつか混じっていました。
大学の卒業式に行く前のガウン姿の私。
結婚式の時の写真など。
そして、若き日、私が父に反発して家出をした時に両親宛てに
書いて投函した手紙も、そこに取ってありました。

娘のことが心配のあまり、全てをコントロールしようとした父と
それに必死に反発した私。私の覚悟は足りなくて、何時の間にか
なし崩しにうにゃうにゃ・・・。よくある話ですけれど、その当時も
それからも、私は愛の中にいたんだナと今は感じました。


実母のものは、先日ブログ記事に書いた日記


継母のものは、10年に及ぶ認知症があったのと
父のように書く習慣がなかったのか、日記みたいなものは
ありませんでした。こまめに手紙は書いていたようですが、
それは手元には残っていません。

ですが、今日、私の部屋(私が結婚した後、継母が使っていました)
から、継母が勉強していたものがみつかりました。

英語のテキストと俳句のノートとペン習字のテキスト。
女学生の頃が戦争の時代で、英語の勉強ができなかった。
だから、英語を学びたいと言っていました。
中学の英語の教科書(たぶん私のものです)とノート
単語帳などがみつかりました。
もうはっきり覚えていないけれど、私が先生役だったのだと
思います。そういえば、私は母の洋裁の先生もしていました。
母は私から、いろいろ習ったりしてくれて、そして、近所の人に
私のことを自慢してくれたりしていました。
「実の娘じゃないから、こんなこと言えるんですけど」って、
前置きしながら。やっぱり私は愛の中に居たんだナと
ここでも思いました。

もう1冊みつかったのが、俳句のノートです。
60代に入った頃から、今までやれなかったことをやりたいと
いろいろ勉強していました。そのうちのひとつです。
ノートの中に、懐かしい母の文字がぎっしりだったので、
このノートを形見にしようと思いました。

ふたりのプライベートな物の片付けだけは
私がひとりでしようと思って、そうしています。

親の片づけをしながら、自分再発見です。

150608.jpg
あじさい、トルコキキョウ(紫、ピンク)
季節らしいお花をそろえました。
兄弟想いだった継母
親の家を片付けていると
今は亡き親の姿が浮かび上がってきます。

ここで、生きて、生活していた痕跡がみつかります。

今日は継母のものを片付けていて
兄弟からの手紙、継母の書きかけの手紙の下書き
などに目が留まりました。
そこには弟たちのことを気にかける
継母の姿が蘇りました。

継母は、女学生の頃に父親を病気で亡くしています。
3人姉妹の3女、その下に弟が2人
上の姉達は女学校を出ると、すぐに結婚していて
当時、継母が働いて、弟たちの学費を助けていたそうです。

弟2人が一人前になって、お役目を終えた継母は
自分の家庭を築こうと、再婚だった私の父との人生を始めたのでした

継母の3人姉妹と祖母の4人の女性は大の仲良しでした。
祖母はうちへも何度も遊びにきてくれて、
私も大の仲良しにしてもらいました。

弟2人が家庭を持ってからも、
継母は2人のことを気にかけ、
何かにつけて援助していた様子がわかりました。
だから、叔父たち(弟2人)も、
母のことを気にかけてくれたのでしょう。

ひとりっこの私は
継母の、仲良く助け合っている兄弟姉妹のことを
ちょっぴり羨望の目でみていました。

そんな日々を思い出しました。
亡き母の日記
日記帳
イメージ画像です

両親が亡くなってから4年が経ち
ようやく、私の心の中で、ひとつの決心がつきました。
主のいなくなった家と庭を手放そう。
そして、今の自分の家族の、新たな生活をスタートしよう。っと。

なので、両親の家の片付けが最急務となり
足の怪我が治まってから、時間を作って片付けています。

今までも、ぼつぼつ片付けてきていたのですが、
今回は期限がありますので、今まで手をつけずにきた、
写真とか、手紙とか、日記とか
時間切れだからと言って、見ないで、まとめて処分と言う訳には
いかないものを優先することにしました。


納戸部屋の天袋の中から、ほこりだらけの紙袋に包まれて
保存されていたものをみつけました。

それは、私が12歳の時に、39歳で病死した母の日記帳でした。
母が亡くなった翌年、父は再婚し、それから3年して、私と父と継母は
この新しい家に引っ越してきました。

この日記を、引っ越しの時にも、父が処分せずに持ってきて
そっと保管していたようです。

それは、私にとっては何にもまさる宝物です。
実母のものは、ほんの少ししか残っていませんし、
記憶自体、あいまいだからです。

日記と言っても、ほんの少し書いてあるだけですが、
ぱらぱらっと拾い読みしていて、
とある内容に目が釘付けになりました。

私の弟が、脳膜炎(髄膜炎)で3歳で亡くなりました。
私は、母に抱かれている弟の足の裏をくすぐったこと
(きっとジェラシー感じていたのですね)
それから葬儀の日のことだけを覚えています。

その弟が亡くなった時のことが書いてありました。
「ご臨終です」と言われ、父と母が号泣したこと。

後日の日記には、「ぼうやのこと」として
弟がとてもとても可愛かったことや、
弟亡き後の母のどうしようもなく虚しい気持ちがかかれていました。

「可愛い ぼうや」・・両親が「ぼうや」とか「ぼう」と
呼んでいたのが蘇りました。

父は、何も言わず、ただ「電車」をいじっていた・・・と
書いてありました。おしゃべりな父でしたのに。

「レールを敷いて、電車を走らせると、ぼうが はしゃいで
手をたたいていた」そんなふうに父が語っていたことがありました。
父がずっと持っていたあの電車(今もあります)には、
そんな想いがあったのだ。

30代の両親の姿が浮かびあがってきました。
母はそこに生きていて、ずっと私たちを見守ってくれたのかな。

4人兄弟姉妹で、私以外は幼児の時に亡くなりました。
だから、父は私に対して異常なほどの執着をしていたのだろうか。
決して死なせない。
こんな想いは、もう2度としたくないと切に思っていたのでしょう。

そういう父の気持ちは、私には重過ぎて、
どんなにうっとうしく思ってきたかしれないけれど、

ずっと、大人になっても、父が亡くなった後も
この年になっても
まだ持ちづつけていたわだかまりを

50数年の眠りから覚めた母の日記が消し去ってくれました


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